太平洋戦争が始まった旧日本軍による真珠湾攻撃から、8日で80年を迎える。魚雷を備えた特殊潜航艇5隻を率いて米艦隊への攻撃を目指したのが、群馬県前橋市出身で当時26歳の岩佐直治中佐だった。真珠湾で戦死し、死後に「軍神」として称揚された一方、戦後は批判的に語られ、今は存在を知る人も少なくなっている。関係者はその変遷をむなしく振り返り、有識者は「時代に流されず、事実を客観的に学ぶことが平和を維持するために最も重要」と指摘する。
前橋市中心街に近い松竹院(同市本町)。1日に境内を訪ねると、木々に囲まれた岩佐中佐の墓がひっそりと立っていた。中佐が残した句碑や、同級生が建てた墓標も立っている。
同寺で生まれ育った明峯悦子さん(77)によると、かつて12月8日の命日には、生前の岩佐中佐を知る人や海軍兵学校OBらが集まり、にぎわったという。だが、高齢化により訪れる人は減り、数年前からはほぼ途絶えた。
明峯さんは「時代が移り変わり、戦争への関心が薄れたと感じる。歴史が切れてしまった」と寂しそうに語る。
同寺の墓標は、一周忌の後、旧制前橋中の同級生が建立したものだ。墓標を建設するために土地の使用許可を求めた当時の申請書や許可証が、県立歴史博物館(高崎市)に所蔵されている。同校時代の同級生、伊藤清一さん(故人)が所有し、親族が同館に寄贈した。「岩佐中佐の人柄を実際に知る人々の思いを現代に伝える貴重な資料」。同館の佐藤有学芸員は、墓標と関連資料について、地域の歴史を伝えていく上での重要性を説明する。
歴史に詳しい群馬地域学研究所の手島仁さん(62)によると、岩佐中佐は戦時中は「軍神」とたたえられた一方、戦後は「出身地の前橋が空襲で狙われた」などとデマを流されたこともあったという。「美化や俗説から離れ、残された資料を基に客観的な事実を捉える必要がある」と強調。イデオロギーや誤った情報の影響を受けた社会が、中佐をどう扱ってきたかを学ぶべきだとして、「正しい情報に基づいて判断することが、平和を維持するために最も重要だ」と話す。
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