出雲市には約3500人のブラジル人がいる。その多くは市内の電子部品工場に勤務しており、市内のNPO法人「ブラジル・サポートセンター」の副理事長としてブラジル人の生活を支援する。
個人的に設立した任意団体では就農支援にも取り組む。高齢化などで増えつつある遊休農地の情報を集めて紹介し、ブラジルの主食になっているキャッサバ芋やクレソンの栽培を促す。
「農業をやっていれば、生活できますから」
農業には人一倍強い思いがある。祖父母が日本からブラジルに移住し、自身は南部のパラナ州で生まれた。コーヒー豆農園を営む両親の下、7人きょうだいの長男として育った。
裕福な家庭環境ではなかった。弟や妹の面倒を見ることが多く、「やりたいことや食べたいものは我慢し、弟たちに譲る日々」。小学校を卒業し、12歳から両親の農園を手伝い始めた。
やがて独立し、トウモロコシや大豆などを手がけ始めた。少しずつ資金を増やし、農地の広さを500ヘクタールまでに拡大させた。東京ドームに換算すると100以上もの広さだ。
だが飲食店経営などの事業を掛け持ちし始めた直後、ブラジルを襲ったハイパーインフレーションで、それまでの苦労が水の泡に。心機一転して「言葉が話せる日本に行く」と1992年、38歳の時に来日したという。
来日後、知人の紹介で、兵庫県姫路市の自動車関連の会社で働いた。朝早くから夜遅くまで16年間働いて資金を集め、念願だった飲食店をオープン。だが今度はリーマン・ショックのあおりで店を閉め、キッチンカーでブラジル料理を販売する生活を始めた。
キッチンカーで西日本各地を転々とする中で、大勢のブラジル人が暮らす出雲市について「のどかで人が温かい」と気に入り、2014年に移住を決意。市内でブラジルの家庭料理店「PASTELARIA PAIZAO」(パステラリア パイザウ)を開いた。
パイザウは「大きなお父さん」を意味するポルトガル語だ。ブラジル人の常連客も心を開き、「言葉の壁を乗り越えられない」などの相談に応じるように。誰もが海を渡る一大決心だったはず。それなのに途方に暮れる姿がつらく、「何かできないか」と支援に取り組むようになったという。
市にも掛け合い、遊休農地を紹介したブラジル人らと手がけたキャッサバ芋は、近く市内の学校給食で使われる見通しになった。「ブラジル文化を理解するきっかけになってほしい」と目を細める。
「人の役に立ち、みんながハッピーになるのが好きなので、夢をもって来日したブラジル人を応援したい。両国の懸け橋になる人材も育成したいですね」(中村申平)
小学生の時、日本語を覚えるために読んだ少年漫画です。親が日本から取り寄せてくれました。当時、ブラジルの子どもたちもロボットなどの強い存在に憧れ、漫画の世界に夢中になっていました。日本語のひらがなやカタカナが読めるのも、この漫画のおかげかもしれません。
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February 21, 2022 at 03:00AM
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