
宇根豊氏
だが、本当に動物や植物と「こころ」が通い合うのだろうか。科学的には説得力は薄い。しかし、この能力というか習慣は科学が生まれる前から人間に備わっていたもので、農耕・牧畜によって、磨きがかかったものだ。
悠然として 山を見る 蛙かな(小林一茶)
祈るべき 天と思えど 天の病む(石牟礼道子)
そのために 田を植え させる赤とんぼ(拙作)
詩歌は天地自然との「こころ」の交感があふれている。農業の何が、こうした感覚を発達させたのだろうか。
稲の声を聞け
若い頃、年寄りの百姓から「稲の声が聞こえるようになってこそ一人前」と叱られたことがあった。百姓仕事の相手は、生きものである。その生きものの一生をしっかり見て過ごす。そして、その生きものの「いのち」をいただく(殺す)。それにもかかわらず、相手の生きものは、季節が巡れば「かえって」来てくれる。
単なる生きものではないのだ。百姓を支えてくれている、と言ってもいい。オタマジャクシのいない田んぼなんて、考えられない。花が咲いていないあぜは、寂し過ぎる。季節とは、暦や気温で知るのではなく、生きもので感じるものだ。こうした生きものを人生の「相手」と捉え「生きもの同士」という感覚を身に付けてきた。
科学任せに懸念
ところが現代では、百姓が「稲が求めているから、手入れをする」と言うところを、農学は「稲を観察して、必要な技術を選ぶ」と言う。百姓も「翌年播種(はしゅ)するために、採種する」と言うようになり「いのちを引き継ぐために種をとる」とは言わなくなった。大事な感覚・伝統を失おうとしているのではないか。
ぜひとも農業技術書には「稲の声の聞き方」「蛙(かえる)との会話法」「天地自然の感じ方」などという項目を盛り込んでほしい。私は冗談で言っているのではない。農とはそういうものなのだ。
科学は有用だが、「生きもの同士」という感覚を扱えない。言葉というものは、「相手」と交わすものだが、科学という翻訳者なしでも、稲や蛙と話が通じることを知ってほしい。それが農の神髄だからだ。
こうした百姓の感覚や感性を抜きに、農業技術を開発するなら、農業らしさは死に絶える。技術に手綱を付け、操る百姓の力量が問われている。
うね・ゆたか 1950年長崎県生まれ。農業改良普及員時代の78年から減農薬運動を提唱。「農と自然の研究所」代表。主な著書「日本人にとって自然とはなにか」「百姓学宣言」。近著「うねゆたかの田んぼの絵本」全5巻(農文協)は、百姓の情愛と科学を出合わせた語りが評判に。
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May 31, 2021 at 05:02AM
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自然との交感 “会話”で技術磨こう 百姓・思想家 宇根豊 - 日本農業新聞
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