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Monday, March 2, 2020

「日本の生きる道」と有機農業の踏み誤られた歴史の第一歩(小塩 海平) - 現代ビジネス

第二次大戦末期、食糧不足解決のための国策として遂行された「満洲報国農場」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69535)。多くの若者たちの命を奪ったその政策を推進した官僚・政治家・農学者たちは、いかなる戦後を生きたのか。そして今まさに盛んな「有機農業」の歴史的始点における“踏み誤り”とは何であり、農本主義者たちの思想との不可視化された連続性とはどのようなものであるのか――。東京農業大学教授の小塩海平氏が問題の核心に迫る。

農本主義者たちの戦後

農業報国に尽瘁していた農本主義者たちは、数多くの開拓団や報国農場隊を満洲に送り出してきた。彼らは、予想されるさらなる食糧難に対処するため、自分たちが満洲に送り込んだ人々の悲惨な状況をもかえりみず、敗戦後、寸暇を惜しまず東奔西走した。

例えば、一部が報国農場隊として満洲にも派遣された食糧増産隊は、1945年11月からは「開拓増産隊」と改称され、開墾干拓や大規模土地改良等に投入されている。石黒忠篤を中心とした農本主義者たちが固執したのは、食糧増産は戦後も隊組織で行うべきということであった。

石原治良はさっそく戦時中の経験を活かすべく『農事訓練と隊組織による食糧増産』(農業技術協会、1949年)を執筆した。

この本は満洲報国農場に関する戦時中の資料がほとんど焼棄されたなかで、その概要を知ることができる唯一といってよい文献である。過去の反省はほとんど述べられず、「抑々農の道、百姓の践み行ふべき道は、平時も戦時も変わることなきもの」との主張がなされている。

石原はその後も「産業開発青年隊」(1951年)や「農村建設青年隊」(1952年)の政策立案やその実施に精力的に関わった。未帰還の満洲報国農場隊員がいたにもかかわらず善後処理が打ち切られた、ちょうど同時期の出来事である。

戦中も戦後も深刻だった人手と肥料の不足

1940年、石黒忠篤が第二次近衛内閣の農林大臣に就任したとき、労働力と肥料が絶対的に不足するなかで食糧を確保するために考案したのが、隊組織による農事訓練というシステムであった。

農業増産報国推進隊、農業増産報国推進隊嚮導隊、食糧増産隊(少年農兵隊)、満洲報国農場隊など、すべて軍隊と同様に大隊・中隊・小隊・別働隊などで構成し、内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で中央訓練、各府県の修練農場で地方訓練が実施された。

中央訓練では、全国すべての農村約7500から2名ずつの代表、つまり合計15000人を内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に集め、石黒農林大臣が膝をつき合わせて直接説諭し、地元に還元・徹底させる方針であった。石黒は1942年の中央訓練における演説で、こう言っている。

「肥料の供給數量が又減じた。人手も足りない。而も國家は無理な增産を要求する。是以上出來ないといふて諸君が鍬から手を離して、手を上げたならば、增産は出來ないと同時に國は滅びなければならない。戰爭は大陸の彼方でなくて此の場合諸君の鍬の前にある。此の戰線を突破し、此の困難に打ち勝つて國を伸展せしむる爲には、どんな無理があつてもやり通さなければ勝てないのであります」。

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